織田信長(1534~1582)

尾張国の戦国大名・織田信秀の子。幼名は吉法師。
父の死後家督を継いで尾張一国を統一、桶狭間の戦い(1560)で今川義元を破って武名をあげる。その後畿内を制圧、室町幕府を滅ぼし長篠の戦(1575)で武田勝頼を破る。
京都・本能寺で家臣明智光秀の謀反にあい、天下統一半ばで自害。

織田信長肖像画

織田信長肖像画

実力主義と自由競争がすべての原点

 「天下一の号を取る者、何れの道にても大切なる事なり。ただし、京中の諸名人として内評議うちひょうぎありて相定あいさだむるべき事」(『当代記』)
 「天下一」の称号を得ることはどんな道でも大切なことである。ただし、これを決定するには京都の名人たちが集まり、公平に評議して決定しなければならない、という意味であり、織田信長はこの定書さだめがきを京都奉行・村井貞勝に宛てに送った。元亀4年(1573)7月のことである。

岐阜城天守。永禄10年(1567)信長は美濃国を手に入れ天下統一をめざした

岐阜城天守。永禄10年(1567)信長は美濃国を手に入れ天下統一をめざした

 この時期の信長は、勢力がようやく畿内に行きわたり、京の町の地子銭じしせん(固定資産税)を免除するなどして、より一層深く民衆の気持ちをつかんで大きな支持を得たいと考えていた。そして、冒頭の定書は京都中の職人たちを奮い立たせ、励ますことになった。
 具体例をあげると、鐘、釜、畳、茶器などの制作に秀れた者が輩出した。

 「京都(武野たけの紹鴎じょうおう)時代に京都天下一西村道仁にしむらどうじん、名越善正なごえよしまさなり。道仁は信長公<御釜師おんかまし、わが家の元祖なり・・。」(『釜師由諸書』)
 「京之天下一、太郎五郎」(『津田宗及そうぎゅう茶湯日記』)
 「その方、畳刺たたみさし天下一として、信長御朱印なされ、諸公事しょくじ御免許の上は・・」(『玄以法印下知状』)
 畳刺(たたみさし)の天下一で代・石見いわみ(伊阿弥)新四郎宗珍そうちんは信長が上洛したとき内裏修造に際して畳大工の御用をつとめたのをはじめ、安土城の大・中・小書院の広間の畳の製造を請負って名をあげた。

 要するに信長はフェアな競争で技能を競うという自由を社会に与え、それまで重視されていた門閥や誰彼を問わず、力のある者を抜擢しようとしたということであった。
 京都に旗を立てて日本を統治するために、多くの武将が全知全能を傾けた。
 それは、名将中の名将のなかから、ただ一人だけが勝ち残る苛酷なサバイバル・レースであり、誰もが多大な必要経費と犠牲を払う命がけの戦いであった。
 そうした厳しい戦いを戦い抜くために、先頭を走っていた信長にとって、どの分野に限らず天下で最も秀れた者が誰なのかは大きな問題であり、なおざりにはできない問題であった。

  持ち前の好奇心もあったろうが、信長はこの「誰が最高なのか」という問題を職人の世界に適用したということで、その技能を競わせ、自由競争させることに よって「天下一」の称号を与え、ひいては実力主義と自由競争が導入された結果、技術の大きな発展を促進する成果をあげて日本経済が活性化され、成長したの である。

戦国版・構造改革の断行で人心掌握

 天正7年(1579)5月に安土城(滋賀県蒲生郡)が完成すると、信長はまず家臣たちをそれまで本拠地にしていた岐阜から新しい城下に移住させた。
 そして、信長は安土城下にも楽市・楽座の制度を採り入れた。
 これは、旧制度がどのようなものだったかを説明するとわかりやすい。

安土城百々橋口(滋賀県安土町)

安土城百々橋口(滋賀県安土町)

  それまで各地を支配していた大名、領主、寺社は、自領に関所を設けて物資の流通、人の往来に「関銭せきせん」(税金)を課して利益をあげていた。

 たとえば、京都と大坂を結ぶ淀川の沿岸には、600以上の関所があった。また伊勢(三重県)桑名と日永ひながの四里(約16キロ)の間には40以上の関所があった。
 人々はこれらの関所のすべて、一か所ずつに通行税を支払って往き来していたのである。
 したがって、物の流通や人馬の往来が分断され、時間と手間がかかり、金がかかる。それは、一般の人々が無駄な金とエネルギーを使うことであり、物価に関銭が上乗せされるから、慢性的な物価高がつづくということだった。

信長が岐阜・円徳寺の寺域にあった楽市場の権利を認めた制札

信長が岐阜・円徳寺の寺域にあった楽市場の権利を認めた制札

 また、商人たちは「座」をつくっていた。
 「座」とは同業者組合のようなもので、世襲したり、その組織に所属している者だけが利益を得る特権を握って関銭を免除されたり、「座」に所属していない者を市場から閉め出したりしていた。
 いいかえれば、業界業種別の専売制であり、「座」という既得権によって経済の成長がいちじるしくさまたげられていた。特定の人だけしか利益をあげることができない独占的な営業組合=ギルドのような閉鎖的な経済体制下では正義と自由経済を調和させることはできない。
 信長は、そうしたあらゆる悪しき法や規制を取り払い、武力を背景に既得権を奪い、旧体制を破壊して関所も座も取り払って民間に自由な流通を導入して新しい経済のありかたを創造したのである。

 さらに信長は、「安土山下町中」という掟書(おきてがき)十三条を発布した。
 安土城下に移住してくれば、伝馬役てんまやく などの課役は免除するといった多くの特典をあたえたのだ。

永楽通宝。室町時代から江戸
初期まで広く流通した。

永楽通宝。室町時代から江戸 初期まで広く流通した。

 新しい町を経済特区にするために、永禄12年(1569)に京都で布告した「 撰銭令えりぜにれい 」を、安土でも施行した。
撰銭令は、商品経済が発展して貨幣が一般に流通し、税も銭納化がゆるされるようになった室町時代に粗悪な 私鋳銭しちゅうせん や 渡来銭とらいせん が出回ったため、人々は 撰銭えりぜに 、つまり良銭だけを選ぶようになった。そのせいで経済活動が円滑に行なえなくなり、足利幕府や諸国の大名はしばしばこの法令を出した。さほど効果があがら なかったのだが、信長もまたこの撰銭令を出して、撰銭をした者を厳罰に処すことにした。それに効果が上がらないとみると、さらにこれを悪貨と良貨の交換比 率を定める方法に改めた。

 要するに信長は秀れた軍人、政治家であると同時に、現実を深く認識したうえで先見性と独創性に富んだ新しい手法を導入した経済人であったというこ とで、これまで述べてきたような措置はすべてうまくいき、一般庶民は快哉を叫ぶような感じで信長を応援することになったのである。

 イエズス会宣教師ルイス・フロイスは次のように述べている。
 「信長はあらゆる賦課、関銭や通行税を廃止し、おおいなる寛大さですべてに自由を与えた。この好意は民衆の支持を得て、一般の人々はますます彼に心をひかれ、彼を主君に持つことを喜んだ」(『日本史』松田毅一訳=以下同じ)

 

執筆者 : 泉 秀樹(いずみ ひでき)
昭和18年(1943)静岡県生まれ。慶應義塾大学文学部卒 産経新聞社勤務を経て文筆活動に入る。 同48年(1973)「剥製博物館」で第5回新潮新人賞受賞。 著書は「海の往還記」(中公文庫)、「戦国なるほど人物事典」(PHP文庫)、「日本名産事典」(日本図書センター)、「天下取り73城」(学研ムック)、「江戸の未来人列伝」(祥伝社)、「士道の本懐」(PHP研究所)など多数。 写真家としても活躍している。

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